空閑俊憲の日記

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<アチョ・ナムゲ伝説> 空閑俊憲

<アチョ・ナムゲ伝説> 

アチョ・ナムゲを語るのは、絵師、写楽について語るのと同じように難かしく、謎に包まれています。絵本や映画になりそうです。アチョ・ナムゲは今日まだ生きていれば、おそらく百十幾歳になるでしょう。私のチベット音楽の師匠、サンポ・リンポーチェが6歳のとき、チベットの旧首都、ラサで、彼の演奏をじかに初めて聞いています。サングラスをかけ、チベット人には珍しく弁髪をしていて、さらにその上から黒のタプシュ(髪飾り)をぐるぐると巻き付けた、異様な出立ちであったそうです。
リンポーチェの話によると、ナムゲの生い立ちは実に変わっています。ラサから離れたある田舎の大変貧しい家に生まれた。ある日、ラサへの帰りの馬に乗った男がナムゲの家の前を通りかかると、外で泣きわめいている歳の頃、四、五歳の男の子がいた。どういうわけか、ラサの男は足を止め、その子を気にかけた。近づくと、なんと男の子は盲目でした。ラサの男は子の親と相談し、金を与えて、かわりにその子をラサへ連れ帰り、世話をしたいと申し出た。貧しい親としては願ってもない話でした。『眼無しナムゲ』と近所の子たちから虐められていたその子はどうしようもない厄介ものだったからです。
ラサに戻ると、男はさっそく音楽の師匠を訪れて、ナムゲに何か教えてほしいと頼んだ。しかし、音楽家は盲の子どもに手ほどきは無理な注文と言って、断りました。ラサの男はそれでも頑として願いを押し通したので、音楽家もそこまで言うならちょっと試してみましょう、ということになった。ナムゲが手習いを始めてまだ日も浅いうちに、今度は音楽家からラサの男へ連絡がありました。ナムゲの人並みはずれた才能に気づいたからでした。 
やがて何年か過ぎた頃、ナムゲは今ではもう音楽の先生のレベルにまで達していました。誰ももうナムゲのことを眼無しナムゲと呼ばなくなり、かわりに『アチョ・ナムゲ』、つまり兄弟ナムゲと呼んで敬うようになりました。今日に伝わる『トウシェ』や『ナンマ』と呼ばれているチベット古典音楽の大半は、この彼によって作曲されています。
アチョ・ナムゲに演奏を依頼するには、招待者がどんなに偉い人でも何日も前から申し込まなければなりませんでした。ナムゲは自分の気に入った機会だけを選び、そう簡単には良い返事をしませんでした。しかし、いったん演奏日を定めると、彼はその何日も前から衣装や楽器に香を焚きこめるという独特の習性がありました(注)。ここに掲載した写真は、帽子をかぶり、サングラスをかけているアチョ・ナムゲです。これらの写真は何年か前にふいと、東京外国語大学の星 泉先生(私の姉は彼女を星博士と呼んでいます)から私へ送られて来ました。もしかするとアチョ・ナムゲ本人ではありませんか、というメッセージでした。それまでナムゲの写真は知る人もなく、私は非常に驚きました。さっそくサンポ・リンポウチェへ写真を送り、確認していただきましたが、間違いなくナムゲその人であるとわかりました。これはチベット音楽史上の重要な発見でした。
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(注)実は、サンポ・リンポウチェは私をナムゲの生まれ変わりであると信じてくださっているのですが、その理由の一つが、まさにそのことでした。私も演奏前に同じように香で焚き込む習性があるからです。私を好いて褒めてくださるリンポウチェには感謝していますが、果たしてナムゲの生まれ変わりと言えるほど私に才能と努力が備わっているかどうかは、わかりません。
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私はサンポ・リンポウチェのナムゲ物語を信じています。現在81歳になられた彼は、ソートレイク市で奥さんと娘さんの三人でお暮らしですが、ダライ・ラマ法王も彼のことをよくご存知です。サンポといえば、チベットの名門、知らない人はいません。インド独立の式典へ法王がチベット代表として派遣した人は、他でもない彼の父親でした。『チベットの娘』の著者、タリン夫人とは非常に近い親戚関係です。お若い時、ブータンの王女との結婚話もありましたが、1959年の中国共産主義者によるチベット占領事件と重なり、サンポ・リンポウチェ自らその話をお断りしたそうです。
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一方、ある他の友人の話では、ナムゲは全く別人として浮かび上がって来ます。母親が赤ん坊のナムゲを背負って薪を採りに出かけた。近くの川の土手にナムゲを置いていた隙に、カラスがやって来て、ナムゲの眼を啄んでしまった。また後に音楽家に成長したナムゲの人柄について、たいへん愉快で性的な冗談を好む人であった。
何人もの人たちが、それぞれ違った意見で『アチョ・ナムゲ』を語る。その中からおぼろなナムゲ像が現れて来る。チベット黄金時代の後期に登場した伝説の音楽家、ナムゲの物語は今始まったばかりなのです。        
(2007年10月23日記)


つづく