空閑俊憲の日記

PurpleTaraPress © Toshinori Kuga,2008-2024

8年ぶりに入手した貴重な録画、蓮華院誕生寺奥之院、2005年ダライラマ法王を迎えて


Peaceful Snow Lion - Welcoming the Dalai Lama Rengein-tanjouji, Kumamoto 2005
テーチュン自作<Peaceful Snow Lion> チベット三味線ダミニェン:トシクガ
チベット胡弓ピンワンがヒマラヤを吹き抜ける風のように鳴り響く。

8年ぶりに入手した貴重な録画


Yarkyi Dakmo - Welcoming the Dalai Lama Rengein-tanjouji, Kumamoto 2005ダライラマ法王法話が舞台の最階上でもうすぐ始まろうとしていた。その直前に歓迎曲として演奏した四つの曲のうちのひとつ。『ヤンキ・タモ』
演奏者:テーチュン、シェーラップ・ワンモ、トシクガ

チベットフェスティバルTOKYO 2013 出演

チベットフェスティバルTOKYO 2013
http://www.tibethouse.jp/tibetfes/index.html

5月1日(水)〜5月6日(月);護国寺
主催:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所チベットハウス・ジャパン)   
於:大本山 護国寺 入場無料


◆NYから来日! 光の歌声、チベットの華パッサン・ドルマ
                          
【本堂ステージ】
「1世紀に2人出るか出ないかの美声の歌姫」と讃えられるチベット人女性歌手、パッサン・ドルマがNYから来日。ある時は雪の峰々を渡るヒマラヤの風、ある時は澄んだ光のように透明な歌と伝統楽器ダムニェンの温もりの調べをお聴きください。

●パッサン・ドルマ with トシクガ スペシャルステージ
5月1日 (金)〜6日(月) 17:00〜17:30
◇パッサン・ドルマ(Pasang Dolma)
1964年にインド北方のダラムサラに孤児として生まれ、チベット子供村(TCV)で育つ。その後チベット舞台芸術研究所TIPAに長年在籍。主要なチベットの歌姫として活躍。2003年、チベット難民社会の圧倒的な支持を受け、最優秀女性歌手賞を受賞。現在ニューヨークに在住。世界各地で人気を呼んでいる。


◆パッサン・ドルマと愉快な仲間たち           
【ステージリンカ】
在日チベットミュージシャンやチベット音楽を学ぶ日本のミュージシャンも登場!
本坊前のステージリンカでお聴きいただけます。

◇テンジン・クンサン (Tenjin Kunsan)
インド生まれの難民3世。北インド、ダラムサラチベット舞台芸術研究所TIPAに8年間所属。チベット伝統音楽(歌唱、楽器演奏、作曲等)、伝統舞踊、オペラ等を学ぶ。インド映画にダンサーとして、また、チベットを舞台とする映画に俳優として複数出演。近年の映画チベット伝説の音楽家アチョナムギャルの物語「Shey Kyi Jinpa」で若き日の主人公を演じる。またインドにある非暴力と平和のためのガンジー派センターが開催する「ガンジーの人生を伝える会」でインド人歌手でさえ名誉とされるインド古謡を歌う。2010年に来日。その後はチベット伝統文化の保存、促進のため、チベット音楽舞踊学校を主宰し、日本各地でコンサートを行なっている。

◇トシクガ(Toshi Kuga)
1946年生まれの日本人。30年以上ニューヨークに在住後、2010年に帰国。2005年ダライ・ラマ法王来熊本の折、蓮華院誕生寺奥の院熊本県立劇場で演奏。2008年福岡で日本人として初めて法王の御前で独奏する。

◇めぐみ(Megumi
トシクガに師事。チベット三味線のダムニェン奏者。

◇ミルクキャット(milk kyat)
沖縄では弥勒をミルクと発音する。全ての人が等しく唄って遊ぶ弥勒世、そんな世の中が来るようにとの思いで結成された沖縄三線 真田弥生(yayo)とピアノ 木村恵(Megumi Kimura)のデュオ。スペシャルステージに友情出演。

護国寺 チベット祭 5月1日ー6日

一世紀に二人出るか出ないかという美声のチベット人女性歌手、パッサン・ドルマが来日します。トシクガとの七年ぶりの日本公演が楽しみです。沖縄三線の友情出演もあります。

林道郎の読売新聞記事によせて/空閑俊憲



facebook上でご紹介した中西夏之論の著者、林 道郎氏の記事です。昨日カフェ甍にあった読売新聞で読みました。中西さんの息子さんの世代の著者が今後の日本美術の発展に尽力をつくされることを祈ります。このMoMAの展覧会はぼくも一ヶ月余前ニューヨーク滞在中に二度見る機会を得ました。ぼくの感想は焦点の定まっていない内容であるというものでした。言葉を言い換えれば、中核のない展示内容でした。しかし、キューレターのドリュン・チョン氏はぼくが伊豆高原に住まわれている中西さんを昨年の夏訪れたのと擦れ違いに、ちょうどその前日にニューヨークからわざわざ訪ねられていた。日本現代美術の成り立ちに熱心に関心を持たれている人のようです。中核のない日本現代美術は今日でも続いています。いや、世界の現代美術は中核のないまま続行しています。ただ日本においては、世界の中心ではなく、マルセル・デュシャンのロトレリーフのようにずれた円心を持ちながら核を失っているのです。
<1955 - 1970 > ぼくはふと瀧口修造の自筆年譜を参照してみました。
*           *            *
1955(昭30)52歳 「芸術新潮」に異色作家列伝の題で一年間連載した幻想的乃至異色と目される画家の系列についての仕事に多く時間を割く。意に満たぬものであったとはいえ、それまでの日本における西洋美術史の欠落を補うささやかな意図。
1970(昭45)67歳 六月下旬ポリグラファ社の社長、以前からテクスト以外の準備を進めていたので意外に早く完成したミロとの「手づくり諺」を携えて来日。スペイン語の他に特にカタルーニャ語を加えての七カ国語の本文にそれぞれリトを添えた型破りの形。ミロの意図をようやく諒解する。九月、胃カメラの検査の結果、潰瘍のほかに前癌症状の徴候ありと、直ちに胃の切除手術をうける。幸い患部の憂いは去るが、炎症をこじらせ、途中九日間もしゃっくりがとまらぬなど、入院以外に延び二ヶ月にわたる。われら備えなき生活にはテロルであった。多くの友情を忘れることができぬ。やや恢復に向い、寝ながらルイス・キャロル、「スナーク狩り」を註釈本で読む。南画廊での「手づくり諺」の発表展にも出られず、友だちの寄せ書が病床に届く。病中の賜物。
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ぼくが瀧口修造に出会ったのは1966年頃。それから1979年に氏が他界された日までずうっとかれの書斎に通っていました。1955−1970の間に赤瀬川原平の「千円札事件公判」に特別弁護人として出席。アンドレ・ブルトンの死他、芸術に携わって来たかれの人間としての軌跡は世の中の表面にあまり浮かび上がってはいない。シュールレアリストの詩人として生きることで物事の根幹に深く関わったひとりの人間がこの日本に生きていたのです。