空閑俊憲の日記

PurpleTaraPress © Toshinori Kuga,2008-2024

松本竣介展 生誕100年 2013年1月14日まで 世田谷美術館


この画家はぼくにとって懐かしい人です。と言っても、ぼくは生前のかれに一度も会ったことはない。かれが住んでいた西武新宿線中井四の坂(よんのさか)の、林芙美子記念館のそばを通って階段を登りきったところにある松本家の斜め前、永田家にぼくは下宿していた。階段を椅子代わりに近所の子供たちに絵画教室を開いていた。その頃は画家はすでに他界していたが、戦争中は脚にゲートルを巻きどこかへ出かけている若い峻介を隣人たちは見かけた。画家の妻、禎子夫人は昔はちゃきちゃき有能な『主婦の友』の記者で、ぼくは二度ゆっくりとお話したことがある。きりっとした感じの意志の強そうな方だった。
ある日、禎子夫人がぼくを松本家の母屋につながった峻介のアトリエへ招いてくださった。白い内装の小さな西洋館だった。小品が飾られていた。一目見て、才能のある画家だと思った。黒い針金のような線描がしっかりと塗り込められた油絵のなかで、繊細さとリリカルな旋律を与えていた。こんなある日もあった。ぼくが永田家の玄関近くの物干し場で絵を教えていたとき、いきなり禎子夫人の娘さんが服をびしょ濡れにして助けを求めて来た。
「水道の水が吹き出して止まらないのです」
ぼくも彼女も二十代だったが、濡れたワンピースがほっそりした美しい姿態を露にしていた。松本家の台所へ駆け込んで、タオルで水道の頭から吹き出る勢いづいた水を塞ごうしたが、なかなか止まらなかった。タオルを追加してやっとの思いでシャワーを浴びなくても良くなった。
「水道の頭がどこか近くに飛んでるでしょ、こうして抑えているうちに探して」
彼女と口をきき、生活の瞬間をともにした最初で最後の出会いだった。
アトリエで禎子夫人は語った。
「戦時中、油絵が燃えないように、茶系統の絵の具を使ったものはビニールに包み庭の土を掘って埋めたので無事でした」
「峻介が二科画壇へ入ろうとすると、東郷青児たちが多額の金を要求してきたので無理でした」
瀧口修造さんもここにお出でに来られたことがありますよ」
ぼくは資料よりも松本竣介の息吹を感じる事実に魅かれる。