空閑俊憲の日記

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林道郎の読売新聞記事によせて/空閑俊憲



facebook上でご紹介した中西夏之論の著者、林 道郎氏の記事です。昨日カフェ甍にあった読売新聞で読みました。中西さんの息子さんの世代の著者が今後の日本美術の発展に尽力をつくされることを祈ります。このMoMAの展覧会はぼくも一ヶ月余前ニューヨーク滞在中に二度見る機会を得ました。ぼくの感想は焦点の定まっていない内容であるというものでした。言葉を言い換えれば、中核のない展示内容でした。しかし、キューレターのドリュン・チョン氏はぼくが伊豆高原に住まわれている中西さんを昨年の夏訪れたのと擦れ違いに、ちょうどその前日にニューヨークからわざわざ訪ねられていた。日本現代美術の成り立ちに熱心に関心を持たれている人のようです。中核のない日本現代美術は今日でも続いています。いや、世界の現代美術は中核のないまま続行しています。ただ日本においては、世界の中心ではなく、マルセル・デュシャンのロトレリーフのようにずれた円心を持ちながら核を失っているのです。
<1955 - 1970 > ぼくはふと瀧口修造の自筆年譜を参照してみました。
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1955(昭30)52歳 「芸術新潮」に異色作家列伝の題で一年間連載した幻想的乃至異色と目される画家の系列についての仕事に多く時間を割く。意に満たぬものであったとはいえ、それまでの日本における西洋美術史の欠落を補うささやかな意図。
1970(昭45)67歳 六月下旬ポリグラファ社の社長、以前からテクスト以外の準備を進めていたので意外に早く完成したミロとの「手づくり諺」を携えて来日。スペイン語の他に特にカタルーニャ語を加えての七カ国語の本文にそれぞれリトを添えた型破りの形。ミロの意図をようやく諒解する。九月、胃カメラの検査の結果、潰瘍のほかに前癌症状の徴候ありと、直ちに胃の切除手術をうける。幸い患部の憂いは去るが、炎症をこじらせ、途中九日間もしゃっくりがとまらぬなど、入院以外に延び二ヶ月にわたる。われら備えなき生活にはテロルであった。多くの友情を忘れることができぬ。やや恢復に向い、寝ながらルイス・キャロル、「スナーク狩り」を註釈本で読む。南画廊での「手づくり諺」の発表展にも出られず、友だちの寄せ書が病床に届く。病中の賜物。
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ぼくが瀧口修造に出会ったのは1966年頃。それから1979年に氏が他界された日までずうっとかれの書斎に通っていました。1955−1970の間に赤瀬川原平の「千円札事件公判」に特別弁護人として出席。アンドレ・ブルトンの死他、芸術に携わって来たかれの人間としての軌跡は世の中の表面にあまり浮かび上がってはいない。シュールレアリストの詩人として生きることで物事の根幹に深く関わったひとりの人間がこの日本に生きていたのです。