空閑俊憲の日記

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《パッサン・ドルマのチベット音楽史上の位置》 空閑俊憲


《パッサン・ドルマチベット音楽史上の位置》

前回二度にわたり『ナムゲ伝説』を綴りましたが、最後に次のようなエピソードを付け加えておきましょう。

ナムゲはラサにあるツクラーカン(チョカン寺)に沿った道をよく歩いていました。ツクラーカン参拝に来ていた誰かが、ナムゲに気づき、建物の窓から彼に声をかけ、演奏のリクエストをしていたそうです。たまにナムゲが機嫌がよく、それに応えて演奏をする。人はお礼に金を包んで窓から投げて贈る。

「アチョ・ナムゲさん、後生ですから、あの『チョラ・タシ』を『アジョデ』を一曲聴かせてくださいな」

そんな光景が浮かんでくるようです。ナムゲはダムニェン(三味線)、ピンワ(胡弓)、ギュマン(チベット語でギュは「弦」、マンは「多い」の意。多弦打楽器)の並ぶ者がいない名手と伝えられています。しかし、あの何十本もあるギュマンの弦を箸よりも長い竹の棒を両手に持ち、いったい盲目の人がどのようして打ち鳴らすことができたのか、まことに想像を超える話です。

ある日、サンポ・リンポウチェの叔父さんはある悪戯をナムゲにしました。やはりツクラーカン近くでのことでしたが、杖をついて家路に向かっていたナムゲを見て、その叔父さんは、親切そうにこう言いました。

「アチョ・ナムゲさん、私があなたの手を取ってお助けしましょう」

ところが、その叔父さんはわざと違った方向へナムゲを誘おうとしたので、

「なぜ、あなたはまちがった方へ連れて行こうとするのですか! 私は盲でも自分の道はよくわかっている!」

と、ナムゲは怒ってしまったそうです。

アチョ・ナムゲには何人もの弟子がいました。ダラムサーラにあるチベット舞台芸術団(通称TIPA)で古典音楽の指導に当たったことのあるルーツァもその弟子のひとりでしたが、ナムゲ現役当時は彼はそれほど重要なミュージシャンと評価されてはいませんでした。優秀な継承者といえば、タルゲ、アメンリ、ドルジェたちがいました。そのうちタルゲは現存する最後の継承者でしたが、惜しくも昨年ラサで亡くなっています。アチョ・ナムゲを直接知る人はもうこの世にはいません。サンポ・リンポウチェは生前のタルゲへ、アチョ・ナムゲ伝承者としての、またチベット古典音楽の正しい継承者としての彼の立場の自覚を説いたそうです。というのは、タルゲさえも本来のナムゲ音楽から道を外すことがあり、師は警告を発せねばならなかったからです。アメンリは中国人とチベット人の両親を持ち、ダムニェンだけを、しかもナンマのみを演奏していたそうです。そしてドルジェ、この人はナムゲのように盲目でしたが、実に愉快な演奏家であったらしい。聴衆の前でおかしな芸を披露しました。ダムニェンでトーシェを演奏しながら、同時にそれとはまるっきり異なる旋律のチベット・オペラを歌ってみせたというのです。(笑)

シミ・ランバ、ポロ・ランバと呼ばれていた歌手・踊り手たち、アチョ・ナムゲとその弟子たち、チベット古典音楽、ナンマ・トーシェはこの人たちによって黄金時代を迎えたのです。
やがてナムゲが人知れずこの世を去ったころ、ひとりの若くて美しい踊り子が現れました。チュシ・イシ・ドルマです(写真上:ダムニェンを抱え座す)。彼女の『ソナム・パンゲ』(ナムゲ作曲)はとくに人気があり、私は話に聞く彼女のような踊り方をする人を今日では見たことはありませんが、踊りの途中でシャモ(帽子)を脱いだり冠ったりするその華麗な仕草に、ラサの観衆は口を揃えて誉めそやしたそうです。題名は「祝福された平原」という意味ですが、歌詞の内容は、「花の咲きほこった平原を歩いていると、どこからともなく僧侶の奏でるギャリンの音色が聴こえてくる」と唄っています。

写真上のなかで、ダムニェンを握っているのがチュシ・イシ・ドルマ、その隣に立つ女性は歌手のアナンです。この人は脚に障害があり、ちいさな女の子のように無邪気な声で唄うのが特徴です。アナンの唄声もチュシ・イシ・ドルマのダミネン演奏(おそらく晩年の時期)もその録音はかなり鮮明に今日に伝わっています。チュシ・イシ・ドルマの速曲『タグツ・カルポ』(ナムゲ作曲)のダムニェン演奏は乱れもなく実に見事です。

この二人の女性ミュージシャンがアチョ・ナムゲとパッサン・ドルマとを結ぶ、ちょうど中間地点に位置し、橋のような役割を果たしている、と私は考えます。シミ・ランバ→アナン→パッサン・ドルマ、この三人の歌手に共通しているのは、子供のように唄っているところでしょう。他の今日のチベット人女性歌手にはあまり例がありません。なかでもパッサン・ドルマは私が傍で共演する機会を得たこともあり、よくわかるのですが、舞台に立つと一変してあるオーラに包まれます。「サラスワティもタラ女神も私の姉か友だちのような存在なの」と断言する彼女の言葉が、まんざら嘘でもないように聞こえてきます。(笑)
彼女の声質のきわだった特異性を科学的に証明することができたのは、昨年の京都での録音の際でした。経験豊富で優れたオーディオ・エンジニアの久保さんが私を呼び、見せたいものがある、と言ったのです。録音結果を示すコンピューターのグラフでした。

「俺は長いことこの仕事に携わって来たけど、しかもたくさんのソプラノ歌手の録音にもたちあったけど、こんなグラフは今まで見たことがない。驚きだ。見てよ、この高音の伸びきるところ、一直線で揺れひとつない。たいていの歌手はこの最後の部分で声が保てなくなり、あるいはなんらかの理由でかすかに揺れ始める、それがグラフに表れるのが当たりまえなんだ。しかし、このパッサンは……」

私もそのグラフに見入りましたが、確かに上へ向かってどこまでも一本の線が小刻みもなく伸びていました。

グラミーを授賞した歌手、ヤンチェンラモは以前パッサン・ドルマに古典曲の唄を教えてほしいと頼んだことがありました。しかし、パッサン・ドルマはそれを断りました。今では笑い話になっていますが、あの金持ちのヤンチェンラモは授業料としてパッサン・ドルマに歌詞一語一語につき僅か1ルピーを支払うと約束したそうです。

貧しくても、身体に障害はあっても、パッサン・ドルマは自分の手で二人の男の子を育てあげ、焼身自殺を計ろうとしたことさえありましたが、苦境の半生を乗り越えてきました。2003年、インドのダラムサーラで催された最初のチベット音楽賞コンクールで最優秀女性歌手賞を受賞、これは通常の何人かによる審査員制度ではなく、一般のチベット人による多数投票で決定したのです。一般庶民からの圧倒的な支持を受け、彼女はこのときチベット音楽史上に歌手としての最初の刻印を押すことができました。

2006年、長野での『羽衣』演奏会最後の舞台で、パッサン・ドルマはアンコールに応えてひとつの歌を披露しました。その無伴奏の歌は、天女の歌声のように会場に響き、聴衆も私も、その美しい旋律に息をのんで聴き入りました。後でわかったのですが、それは彼女がその場で初めて作った即興歌だったのです。孤児であるパッサン・ドルマは、未だ見ぬ『アマラ』(チベット語で「母」の意)を祈っていたのです。

彼女がまだ子供だった頃、ダラムサーラにあるTCV(チベット子供村)でのこと。ひとつの小さな部屋に共同生活する何十人もの親のいない子供たちのなかに、古いラジオに毎日聴き入っている歌の大好きな女の子がいました。子供たちが『アマラ』と呼んでいた看護人がある晩消灯の見回りにさしかかったとき、暗い部屋のなかから美しい歌が聴こえてきました。

「もうラジオを消しなさい!」

とアマラが注意すると、歌は止みました。そうです、それはパッサン・ドルマが唄っていたのでした。


(写真下:9歳のパッサン・ドルマ

(2008年8月記)